生きた言葉

 先日、車谷長吉と白洲正子の対談を読んでいて「生きた言葉」という箇所で随分と考えさせられた。車谷さん曰く、「寿司屋の職人さんとか、旅館の下足番をやっているような人達は、生きた言葉を発しており、逆に世間でインテリと評されているような人達は、生きた言葉を発していない。要するにインテリでない人達は、生きた言葉をそのままに生きている。」と。

 「生きている言葉」とは何なのか?本音と建前といった単純な意味でもなかろう。板前さんだってお客に建前ぐらいは言うだろうから。どういう意味なのかな?と、インテリでも一徹な職人でもないアタシは考えるのだが、その対談で生きた言葉を発していた稀有なインテリに小林秀雄の名が挙がっている。

 確かに彼の文章はやさしい言葉でとても大切なことが書いてある。例えば「美しい花がある、花の美しさというようなものはない。」といった具合である。

 車谷さんは、自分のことなどどうでもいいと思いながら必死になって原稿を書いているという。そんなことをしているとあなた死んでしまうわよとか、殺されてしまうとか奥さんから本気で心配されているそうである。もうこの時点で、アタシを含む多くの牧師は、車谷さんに負けている。

 それがどのような言葉にせよ、実体験に基づいた言葉だけが生きるのであり、ただテレビを見たり、本を読んだりして考えたことは、本来自分の体験ではないのだから、当然その言葉は生きてこない。机上の空論で人の心を動かせる道理などない。

 イエスは、ラビ大学の学生を一人も弟子にはしなかった。世間から省みられることのない市井の人々だった12人の弟子達。そんな彼らをイエスは愛しておられた。いつも的外れだった彼らの言動。しかし、その言葉は生きていたのである。

 それにしても、ムチャ重要なことを「アレッ?」と思わせるほどサラリと書いてあるのが聖書である。現代作家なら大河ドラマにも脚色出来るような内容が、ほんの2〜3行で記してあるので、アタシのような注意力散漫な人間はついつい読み過ごしてしまう。

 ただ、鞭で叩かれ、牢獄にぶち込まれ、もうすぐ殺されるかも知れないという状況下にある人間が、自分の血と汗で綴った手紙を、宗教の教科書のようなつもりで読んでいては全然ダメだと言うことは、やっと最近になって実感している。

 いずれにせよ、聖書であれ、小林秀雄であれ、要はそれが本物か偽者かということである。中間というのはないのである。偽物に目を曇らされたまま自分の人生が終わるようなことなど、決っしてあってはならない。

 本物と接していなければ、何が偽物なのかは分からない。頭ではなく、細胞(霊)で分からなければ、本当に理解したことにはならない。聖書に赤く傍点をひっぱって、それで理解したような錯覚に陥っているようでは、人生ヤバイのである。 (田中啓介 牧師)
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