優しさごっこ

 もはや1世紀前の話で誠に申し訳ないのだが、日本の国民的映画が『寅さん』なら、日本の国民的TVドラマと言えば、やはり『北の国から』である。何たって21年も続いたんだからこれはギネスもんだ。ところが、このドラマの結末は、倉本聰脚本全集を、わざわざ日本から取り寄せたほどのファンだったアタシにとって実にあっけないものだった。

 純は結局ナイーブなだけの優柔不断な軟弱男となり、蛍も幸薄い平成枯れススキ女。しかも、何も兄妹揃って不倫さすことないんじゃない?? 倉本さんは、五郎が老人ホームに入るまで続けるつもりだったらしが、バブルがはじけ、通常の数倍お金も時間もかかるこのドラマを、これ以上継続させることは無理だということで、突然のエンディング。

 その数年後、北の国からのプロデューサーだった人が、倉本さんに「景気もここんところ少しは回復しそうでさ、どう、倉本っちゃん、久しぶりに富良野を舞台にしたドラマをつくろうよ!制作費も多少イロ付けっから!」と、彼に貸しを返すつもりで企画されたのが『優しい時間』という番組であった。

 倉本さんは、現在のTV業界にあっては、既に過去の人。彼が描くヒューマンドラマは、もはや、現代の若者達のサイクルとは、発想の原点からして違う。ところが近年、韓流ドラマがブレイクし、あらゆる手法を出し尽くしてしまった21世紀のTV界に、クラッシックでオーソドックスなドラマのリバイバルが起った。向田邦子亡き後、このクラッシック路線を、継承し得る人と言えば、倉本聰を置いて他にはいない。

 そんなワケで数日前、友達がこのビデオを貸してくれたので、「久方の日本のドラマぁ〜♪」などと、軽薄に喜んでいたのである。(以上、妙に断定的なことをツラツラと書いているが、ファンなんてのはこんなものである)


 倉本さんにとって何と15年ぶりのこの脚本(弟子との共作)は、舞台は富良野にある喫茶店で、主人公はその店のマスター。このお店に来るお客達を巡ってドラマが展開されるという、正に正統派の極致。

 このお店は、コーヒーミルでお客にカリカリとコ−ヒー豆を挽かせている。それがこのお店の特徴だ。「いきなり、コーヒーミルセラピーかよ、だっせ〜・・」と、最初は思ったものの、ドラマをが進行するにつれ、「こんな店も結構いいかも・・」などと感化されているところは、アタシもかなりのミ−ハーである。

 このドラマの舞台である森の中の喫茶店は、臨場感を出すためか、セットではなくて、本物仕様として建てられたらしい。実際に撮影が終った今は、本物の喫茶店として営業されており、「ボクもカウンターでミルを回してみたい!!」というお客で、いつも行列なのだそうだ。(アタシはそこまではしたくない…ヾ(ー ー;)

 で、このドラマで一番印象に残ったが、アメリカではパンダより珍しいペアックの父と青年が登場する場面であった。その父親がこのお店に飾ってある『森の時計はゆっくり時を刻む』という壁掛けを見ながら、「私は時計メーカに務めているのですが、今の技術は、早く正確につくることは出来ても、遅くすることは出来ないんですよ。」というセリフ。

 そこで、『時計』と『時間』は違うものだということに気が付いた。昔の人は、人生に時間を合わせて生活していたが、現代人は、時計に合わせて生活している。「それのどこが違うねん??」と聞かれても、うまく説明はできないが確かに違う。

 時計で計る世の中の時の流れをギリシア語で『クロノス』、神様の時の流れを『カイロス』と言う。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。(伝道の書3:1)」の『時』はカイロスである。このことを少しは分かっていないと、クリスチャン人生は実にチンプンカンプンなものになってしまう。

 今まで世間体ばかりで生きてきた人が、ある出来事を通して内面的な生き方に意義を見い出さねばならなくなった時、神様の時であるカイロスに注目しなければ、本当の人生の意味を見失ってしまう。かと言って、カイロスばかりに焦点をあて過ぎ、この世で生きてゆくために必要なクロノスを無視してしまうと、更にヤヤコシイ状況に陥る。

 約束の時間が守れない、教会の奉仕ばかりで家庭を顧みない、神学もいけど、「もうちょっと世間の常識も勉強しろよ」と言いたくなるような神学生。これら世間の不評を一手に背負っているようなクリスチャンが、クロノスを無視したカイロス転倒パターンである。ここのところが、最近アタシの頭を悩ましている。

 ちなみに・・・なんで『森の時計』としないで、『優しい時間』という、ザートらしいタイトルを付けたのかと言うと、当然そこに倉本さんの意図があったからである。そこで、この番組のWebに掲載されていた倉本さんのメッセージによると・・

 「僕は『優しい』という言葉の意味が最近すごく履き違えられてると思うんだけど、本当の奥深い優しさっていうのは、厳しさに裏打ちされないと絶対出てこないものだと僕は思ってるんです。優しいだけでは、ただの『優しさごっこ』でしょ。」

 そう言えば、ドラマの中で「厳しい人がいなければ世の中はどんどんダメになる。」ってセリフがあったけど、実にごもっとも。そこで、このドラマのメインテーマである父と子の絆の回復ということにつながるワケなのであるが、それでも、アタシにとってこのドラマは結局『優しさごっこ』なのであった。ヒューマニズムの追求なら、最近見た『ギャルサー』の方がよほど高尚であった。

 確かに『優しさは厳しさに裏打ちされていなければならない。』と言うのは事実。見せかけだけの優しさは、ただエッチをしたいがための男のパフォーマンス以外のなにものでもなく、そういうことに気付かないまま、出来あがったカップルは、当然自滅の道を辿るのであるが、多くの人はそこのところすら、分っていない。だから、このような甘っちょろいドラマの企画が通るのである。

 つまり、そこには一つ重要なことが欠けているのだ。優しさは厳しさに裏打ちされていなければない。が、その厳しさが当人のカンチガイだったら、どうしようもないじゃんねぇ・・・。つまり問題の本質は、その厳しさを裏付けるものが、いったい何であるのかということである。

 答えは明白。厳しさを裏付けるもの、それは『正しさ』である。あえてアタシから言わせていただければ、その基準は『神の義』以外にはあり得ない。一方、多様性を尊重し、絶対的価値観を持たない日本人にとって、何が『正しさ』の判断基準となっているのかというと、何とそれは、『自分に対する他人の評価』なのだ。

 最近巷を騒がしている赤福や亀田親子に対する世間の反応を聞いていると、実にそのことを感じざるを得ない。正しいとか悪いとかの問題ではなく、『ヒューマニズム限界』。これが、現代日本が抱えている全ての問題の根底に流れているのである。


(GNSスタッフからのおことわり:日々めまぐるしく変遷を繰り返す日本のTVドラマに関する情報を、在米20年を越えている筆者が把握しているとはほぼ考えられませんので、そこのところよろしくご了承ください。)
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