物忘れのススメ

 先だって10年ぶりで友人と会った。現在東京在住の彼はLA滞在時においては良き仕事仲間であり、駐在員とはほとんどウマが会わなかったアタシにとって貴重な友であった。彼とLAでの思い出話をあれやこれやと懐かしく語り合ったのだが、生活環境の違いなのか、どうも情けないことに「えっ、そんなことあったっけ?」の連続だった。

 仮にアタシがボルネオ島で2年間生活し、それがアタシにとって大変懐かしい記憶として刻み込まれている。10年ぶりに島を尋ねたアタシは、原住民のハッポ君と感激の対面!アタシが「ねぇねぇ、あの時魚イッパイ捕れたよねー!」そこでハッポ君「えっ、うん・・そぉ〜だったよねぇ..」そりゃ、ハッポ君にしてみれば島の生活が当たり前なんだから、魚のことなどいちいち憶えていないのである。

 ここで人から指摘される前に正直に告白しておくが、アタシの物忘れの良さについては巷でも好評、いや定評である。昨晩も、明朝出掛ける際に絶対忘れていけないと思い、大切な書類を玄関ドアの前に置いておいた。ところが今朝、その難関を強硬に突破し、しっかりその書類を忘れたのである。

 「我ながらスゴイなぁ・・」などと、感心している場合ではないのだが、話しによると二十歳を過ぎたら人間の脳細胞は、日々何億と消滅し続けるらしい。アタシの場合、既にそのストックが底をついてきているみたいである。

 アタシは「記憶」というと、何故かダリを連想する。木の枝に時計がぐにゃぶらりんと垂れ下がっているあの絵。おそらくその深層心理には、何時だったか、サングラスを頭に乗っけたまんま「あれっ、どこいったっケ?」とツイやってしまったところを、こともあろうにLAの歩く広告塔と異名を持つ信徒に目撃され、あっという間に笑いのネタにされたという、後悔と自責の念がビジュアライズされた結果であると思われる。

 少し話が反れた・・。嬉しかったとか驚いたとか、何かしらの感情が伴った記憶は残りやすい。であるからにして、男たる者、恋人や妻から「明日は何の日か覚えてるぅ?」などと聞かれたら、ゆめゆめ曖昧な態度を取ってはいけない。大概そういった場合、二人の関係において、何かしら係わりのあることなので、安易に「ン・何だっケ?」などと言おうものなら、間違いなくその後が高くつく。

 だが、これは男女のメモリー回路における構造上の違いであって、決っして男が情に薄いとか、不真面目だとか、そういったことではない。(イヤに力が入っているが)

 以前、「自分の奥さんが着ていた花嫁衣裳のデザインを憶えていないなんて、男としてサイテー!」と、ある女性から言われたことがあるが、正直言って(そんなこと)、いくら愛妻家でも男が憶えてるハズがないではないか!?(でも中にはいるんだろうな、あの時のフリルは素敵だったネ!みたいな奴が…サっぶ〜!!

 で、此間友人から「The Seven Sins of the Memory」という本があるから是非読んでみろと言われた。何でもこの翻訳本が最近日本で発売され、密かなブームを呼んでいるらしい。早速、この本の情報をネットで調べてみたら、人間が記憶を喪失する7つの理由なるものが記されていた。  

 それは、「物忘れ」「不注意」「妨害」「混乱」「暗示」「書き換え」「つきまとい」の7つだそうな。・・・ナルホド。今まで世間からミミズだタコだ、アルツハイマーだ、などと日々責められ続けてきたアタシの物忘れの良さは、このような複雑な精神行程を通過した上での結果であったのかと思うと、読む前からこの本に畏敬の念を感じざるを得ない。  

 そう言えば、最近東大の薬学部が、「K90」と名付けられた記憶力増強剤なるものを発明しという。このクスリに関する詳細は未だ一般には公表されていないようだが、何でもこの「K90」は、人間の肝臓に含まれている物質らしく、これをネズミの脳に注射すると何とネズミがスーパーマウスに変身し、迷路実験の成績がバツグンに上がるのだと言う。  

 もし、この「K90」が商品化された暁には、学力増強や痴呆症の特効薬として、人々は競ってこれを飲むだろう。まさに記憶のバイアグラとして試験の時期には闇値で売り買いされ、記憶のドーピング剤として、試験前の服用していた学生の合格が破棄された! などと言うニュースが巷を騒がせるに違いない。アタシはそんな怪しいクスリなど絶対に飲む気はないが、周りから「飲め!」とか言われそうで怖い。  

 ま、いずれにせよ人間の「知性」がそんなお手軽であるはずはない。記憶力だけが高まっても、それで知性が向上したとは言えないし、第一、人は何を忘れて何を記憶しておくかのかという作業を、自分の意志で決めているわけではない。つまり、脳の機能はその脳で考え得る限り、依然深い謎を秘めたままなのである。  

 時が経てば記憶は断片的になり、忙しさやストレスは記憶力を鈍らせる大きな原因となる。だが、物事には全て表と裏があるように、物忘れにだってちゃんと表の面があるのだ。

 アルツハイマーでは世の中で生きていけないように、ものを忘れることが出来なければ、人間は生きてはいけない。そう、脳のシステムにおいて、ものを忘れるという作業は欠陥ではなく、むしろ優れた適応性なのである!
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