何が仏教やねん?

 アタシと日本の実家との間には、ある暗黙の戦いがある。それは、家に代々設置してある仏壇をめぐる戦いである。何を隠そうアタシは日本の中心、岐阜県高山市にある某お寺(浄土真宗)の出身(しかも長男)なので、本来ならばパープルのオケサを羽織り、往年のプリンスの如く、飛騨の町中を颯爽とスクーターで走り回っていたはずだったのが、どういうワケだかLAでこのような三文コラムを綴っている。

 何故仏壇を拝まなければならないのか? それは、ご先祖様の霊が仏壇にある位牌に宿っているからである。葬式でお坊さんが、何を拝んでいるのかと言うと、身体から離脱した魂を、ありがた〜い戒名(浄土真宗では法名)が書かれた位牌に移すためなのだ。しかし、仏教の教えによると、死んでから49日以内に人の魂は、六道輪廻(天国から地獄迄の6段階)の何れかに行くわけだから、少なくとも50日目以降、位牌は意味を失うことになる。また、お盆には地獄の釜の蓋が開き、故郷に帰って来た魂を供養するのがその目的である。とするならば、日本人はお墓の前でいったい何を拝んでいるのだろう?

 てなことを日本で言おうものなら大変である。「日本人なら墓参りなど当り前!そんなのは宗教以前の問題じゃ、このバチ当たりが!!」確かに初詣(神道)も、法事(仏教)も、クリスマス(キリスト教)も、日本人にとってはあくまで生活習慣の一部であり、誰も宗教をやっているつもりなど毛頭ない。それもご先祖のためと言うより、世間体のためと言った方が正しい。そりゃ、日本には日本の事情もあるだろうが、周りがやってるから自分もやらなければおかしいと言うのは、もっとおかしい。

 ここで仏教の変遷について少し触れておきたい。仏陀は、ネパールの釈迦族という種族の王子であった。その名はゴータマ・シッタールダ。だから"お釈迦様"という名称は、私が"日本人様"と人から呼ばれるのとおんなじで、とても変なのである。仏陀とかシッタールダという名も、悟りを開いたとか、目的を達成したという意味なので、本来なら“ゴータマ師”とか、今風に“ゴータマッチ”とか呼ぶ方が正しい。だが、ここでは分かり易いように"仏陀"と呼ぶことにする。

 仏陀は生存中、経典教義といったものを何ひとつ残していない。彼の思想は、人生の根本問題は苦しみであり、それから解放されるための知恵を説いた、人生における実践哲学である。従って仏陀は来世については何も触れていない。また、悟りはあくまで自分の力、修行によって会得するものであるから、拝むだけで天国へ行けるという浄土真宗の他力思想とは全く相反する。つまり、現在日本の仏教の根底思想にある輪廻転生や、極楽浄土といった思想は、本来仏陀の教えとは全く関係がないのである。

 仏陀の教えは、大変優れた思想ではあったが、残念ながらあまり一般向けではなかった。生涯本なんぞ読んだことがない片田舎のバッチャマに「煩悩とは何ぞや!?」と問いたところで、「何やそれ??」の世界である。仏陀と同じように修行をしないことには、悟りが開けないのが仏教である。現在、仏陀の教えに最も近いとされる日本の禅宗は、だたひたすら座禅である。だが、仕事の合間に座禅というワケにはいかないので、出家しないことにはどうにもならない。このように仏陀の教えは、ごく一部の人々によってしか継承されなかったのである。

 それから仏陀の死後、約500年を経て「仏陀の教えは万人にためのものであり、一部の人間が独占しているのはおかしい!」 という宗教改革が起こった。だが、一般大衆によって蜂起したこの運動は、仏陀の正統的継承者と呼べる指導者と、教えの基礎となる経典なるものが存在しなかった。そのような状況下で、リーダー達の考え方や都合で様々な分派に分れ、その土地の民族宗教や、生活習慣にうまく順応した仏教は、形を変え幅広い地域に浸透していった。しかし、原型をとどめないまでに変形した仏教は、逆にその芯(真)のなさ故に、インドではヒンズー教に吸収されてしまう。これが世に言う大乗仏教である。

 もし、仏陀が現在の仏教事情を見たら、眼をテンにするに違いない輪廻などのあの世的思想は、もともとヒンズー教のものであり、仏陀が拝む対象となってしまった仏像の製造は、ヘレニズム文化の影響である。飛鳥時代、日本に初めて輸入された仏教は、仏像と経典のセットであった。当時、神殿と言えるような立派な建造物などなく、せいぜい石や大木に短冊を巻いたセコイ自然崇拝レベルだった日本は、金ピカの仏像と、何だかよく分からないが、スゴイことが書いてありそうな経典に度肝を抜かされた。しかも「これを拝めば国は安泰ぢゃ!!」と、当時の文化使節団会長であった百済の王様からのお墨付きがあったものだから、日本人が「へへぇ〜〜!!」と何の疑いもなく仏教に飛びついたのも無理はなかった。

 さて、その後日本では凄い勢いでお寺や仏像が建造されていったのだが、仏教が日本の民間レベルまで降りてきたのは、戦争や飢饉で社会的不安が最高潮となった平安後期から鎌倉にかけてである。浄土真宗、禅宗、日蓮宗など、鎌倉新仏教と言われる日本の仏教はほとんどこの時代に誕生し、それ以後、現代に至るまで大きな変革は見られない。と、ざっとこんなところがあらましなのであるが、ヒンズー教と神道と儒教と仏教が渾然一体となった日本製大乗仏教の実体を知る人はほとんどいない。そして何故か誰もこのことについて疑問すら持たないのである。

 日本でお馴染みの、弁天、毘沙門天、大黒天などの七福神や、寅さんで有名な帝釈天。これらはほとんどヒンズー教の神々である。また、日本人の心の拠り所(?)である仏壇や位牌も、実は仏教から発生したものではない。 生きるための哲学である仏陀の教え、輪廻転生を唱える日本の仏教、共に魂が仏壇にいてはおかしいのである。これは、先祖供養を尊ぶ儒教から来たもので、また位牌も儒教の教えを習得した際に授与された白木の証書がその原型である。おそらくその証書と、人の魂が木に宿るというヒンズー教とが結びついたのだろう。

 ところが、この位牌が日本においては非常に大きな意味を持つ。位牌に書かれた戒名のレベルによって、あの世への行き先が左右されるからである。従って、日本は成仏するにかなりの予算が必要となる。意味はよく分らないが、"信士"なら10万円前後で、"院殿大居士"となると何とン百万!!(戒名をインターネットで予約すると、何とディスカウント付き!?というスゴイサイトがあった・・)これはルターの宗教改革以前のヨーロッパで、教会がとんでもないお金で庶民に売りつけていた免罪符と同じである。この話を歴史の時間で習ったとき、中学生ながら「何ちゅぅアホな話かいな」と思ったが、このアホなことを21世紀になった今日、未だマジでやっているのが日本という国である。

 人や自然が神になり、真実より和が優先され、体裁が本音を覆い隠す。皆がご利益を求めて宗教に近づくが、少しでも窮屈になれば距離を置く。このような精神構造が、一家に仏壇と神棚が同居という、おバカな形となって象徴されているのが、偽らざる日本人の実態なのだ。これは日本の伝統どころか、日本でしか通用しないデタラメである。もし、私が日本にとどまっていたならば..「生臭坊主ぅ!!」と世間は何のためらいもなく言ってくれるが、そんなこたぁない。お布施などには眼もくれず、飛騨から第2次仏教革命が起こっていたはず…だったのである。
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